木と漆にひそむ生の喜び

リン・ツァン

「世界の数々の不思議に目を開く時、生命から更に求め得るものは何か」と、木彫と漆の芸術家渡部誠一は考へる。木は、彼がその生の哲学を刻み込むキャンバスであり、漆はそれに着せる、彼の日本人的自然愛の衣である。地界の木片に切り込む一刀は、時に浅くやさしく、時に深く力強い。

 その品位ある思考のこもった作品には似ず、彼の風貌には、過去の苦難に刻まれた跡がない。本年五十二才、三児の父たる彼は、その目が「生の喜び」に輝く時十年は若く見える。横浜に生まれ、十才の時、第二次大戦で米軍の爆撃が関東平野に降り注いだ時、その暴威をさけて〔補筆一〕家族共々会津若松(福島県)に移ったが、彼は逸早く「日本の非」に気付き彼等米軍に対して慣りをもたなかった。

 平和と人聞の生命の尊厳、それが常に此の人の知識と心理追求の要素であった。彼は教師を志望したが、父の事業失敗に依って変更を余儀なくされ、その才を好きな芸術に向けた。幼い頃その身の廻りが芸術品で埋ってゐた事を彼は思い出す。〔補筆二〕

父は熟達した塗師であったし(その父から芸術を受け継ぐのだが)、祖父は徳川幕府崩壊前は会津藩の参議役で絵も描いた。父の跡を継ぐ事を強いられたわけではないが、彼は鋭い観察力でその技術を学んだ。十九才の時、大学進学が叶わなかった渡部は、会津の工人増子(ますこ)に弟手入りして木彫の修業に転じた。旺盛な知識欲に駆られて、出来るだけ早く、出来るだけ多く学びとろうと決心し、彼は大胆にも師匠に、一日一技お教へ下されば必ず修得し二度とは繰返へすまじくと申し人れた。事実、此の覇気満々たる若者は、四十五日問で木彫のあらゆる技術を修得したが、昔通なら二ヶ年半はかかる所であった。この短い期間が終ると、師匠は「もう私の知ってゐる率はみんな教へた、後は自分でやれ」と言って免許証を与へて此の若者を独立させた。

 芽をふいたばかりの若者は、生計を立てる為には実業にしなければと気付き、鎌倉の塗り即ち鎌倉彫りの修業に進み、更に四年の日本式徒弟生活の苦難に耐へて遂に独立した。「その時の私の喜び、とてもおわかり頂けないでせう」と、きびしい修業の第一段階の終りを振返って彼は笑った。正にこれが、生涯をかけての芸術と自然の勉学の始めであった。〔補筆三〕

「そうして、自分ではやれないまでも、芸術の全べてが判るように」。

初め、渡部は精密を窮める植物学者の目で、植物の物質的模写に専念した。この時期に、彼は自然の姿・形を意のままにこなし会得するに至り、技術的には完熱の域に進した。

 しかし、写実に熟達したその時、この芸術家は、これではまだまだ足りないと気付き愕然とした。真の芸術は生命の息を吹込まれてゐなけれぱならぬと悟った。魂なき形は死物である、芸術ではない。この悟りが突破口であった。渡部はやり直す。今度は命のこもった形の創造へと進む。この時期の最初の作品が「」の木彫で、生い立ち伸び上がる生命の因子(もと)が、光に向って全力をこめてピンと突き上がる指状の穂先に示されてゐる。「」と題する此の作品は最近、東京銀座の文芸春秋社美術館に展示された。

 この人の鋭敏な精神は、もう一つの初期の作品「秋・春」に示されてゐる。それは高さ六町の園亭を摸したものだが、秋のもみじを写した場面が上がると、何とそこに梅の花咲く春園の景が現はれる。この風変わりな作品は、病の床にある先輩を楽しませ、はげます為に作られたもので、秋の木の葉を見ながら、もう一目深く見ることで、そこにかくれた春の出来を人は知る。

 この芸術家の心を次に捉へたのは、大聖額「昇り竜」に表現された「動」であった。この東洋芸術の伝統的な主題に、渡部は木でいどみ、渦巻く雲を突いて力強く昇る龍の動きと勢いを見事に表現している。昔通は紙に描く主題を立体像に作り、この芸術家の敬意の精神と特異な心象を明示してみる。温かい漆の色が作品に厚みを加え、それはそのまま彫刻であり絵画である。

 渡部の新しい表現方法探求の成果は、その最新作「」にある。「私は、光の本質と水の透明性に魅せられてゐます。そして、明るさ、透明性とはまったく相容れない素材で、それを表現する事に」と彼は言う。

 彼が心象で作り出す作品は、何の苦もなく全べて自然に出来上ったように見えるが、芸術に於いて自由に表現し得るに至るには、基礎技術の習練が大事な事を渡部はよく承知してみる。漆器芸術家として、彼は亦、それが椀であれ、皿であれ、香人れであれ、作ろうと思う器を実際に使う事が、デザインを決める上での大事な点であると確信してみる。渡部の作品は極めて個性的であって伝統にしばられてはゐないが、それには古典的デザインと近代のそれとが不思議によく溶け合ってゐる。

 彼は、漆器のどの流派にも属する事なく、手許の作品に最も相応しい方式を選ぷ。或るものは鎌倉彫り式の暗褐色、又或るものは会津式の朱、そして更に、或ものは漆を塗らず木肌そのものの美しさを残す。

 彼の作り上げたものは、他の人ならゴールに達したと満足するに十分な出来でありながら、渡部誠一は納得せず、「まだまだ勉強です、探求です」と言う。〔補筆四〕そしてその最終目標たる生命の真意発見に向って技と心を磨き続ける。彼はこの目的に向かってキリスト教を受け入れてきているが、それによって多くの疑問に答えを得・その教へが自分の人生感に合ってゐると感じてゐる。

〔補筆五〕「芸術は宝です」と彼はその終、生の仕事に就いて言い、更にこの世界の事に言及し、「若しこの世に、色彩・形・量・静・動、そういうものが、生命そのものがなかったとしたなら、驚きもなかったでせう。それがある、それが比ぺもののない宝(芸術)を作るのです」と言う。此所に一人の人が居る、苦々の殆んどが至極当り前に考へてゐる世界に霊感を感ずる一人の人が。その人がその霊感を通じて吾々の日常生活に素晴らしい芸術を贈ってくれてゐる。

 ペガサス・プレス発行マガジン誌
一九八七年六月発刊第二巻第六号所載


 リン・ツァン氏記「木と漆にひそむ生の喜び」について

 この一文を記した人は、東洋美術研究者(ハワイ大学)です。中国系アメリカ人ですが、もはや中国人ではなく、何代目なのか、アメリカ人という感じの人でした。日本語は、相当に格調の高い意味を含んだ言葉を有っている人でした。二・三時間、二日にわたるインタビューを受けましたが、この人の精神の豊さと清らかさを求める心に私はうたれました。

 日本紹介の雑誌にのりました英文を伊藤瞳様に日本語に訳して頂きました。

 そしてその結果、英文中の或る箇所に簡単な訂正をせねばならないところを認めました。又、この英文の最後にも非常に難解な言ひまわしのあることも分りました。

 故に私は、記者と私との問で交された話を忠実に再現すべく本文傍線の部分について左記に補筆と訂正をさせて頂きました。.本文註記の番号に従ってお読み合せ下さい。このことは記者にとりましても正しいことと思います。  

渡部

〔補筆一〕家族共々会津若松に移ったがそれらのことに対して何の恨みも抱くことなく、彼は速やかに「日本人が悪かった」と指摘した。

〔補筆二〕父は熟達した塗師であり、母はその仕事に於いて国の重要な役も果した蒔絵師であったし(この両親から芸術を受け継ぐのだが)曾祖父は徳川幕府。

〔補筆三〕「そうして、自分の限りある人間としての能力と一生では為し得ないまでも、芸術の全てが判るように」。


原文「Joie-de-vivre In Wood And Lacquer」